「明るい生」を生きるには死と取り組まねばならない

『私は率直に言って仏教は好きになれません。
我々は明るい生をこそ求めているのに
仏教は暗い死が多く語られ陰湿だからです。
なぜ仏教は
人の嫌がる臨終や死を重視するのでしょうか』

現代人の多くは仏教は陰湿だといって死を避けますが、
避け得られるものではありません。

誰しも病気になりたくありませんが、
それでもかかります。
かかると放っておくわけにはいきませんから医者の手当を受けます。
なぜ医者にかかるのか、
内心死を怖れているからです。

物価がこんなに上がっては暮らしていけないと心配致します。
これもまた無意識の底に死への不安があるからなのです。

仏教に「生死一如」という言葉があります。
一如とは、紙の表と裏のように切っても切り離せないこと。
生きている我々の百パーセントの行く先が死ですから、
その未来が暗くして、今を心から楽しめる道理がありません。

飛行機でいえば、
機内で映画や音楽、食事など空の旅を楽しめるのは、
五時間後にはホノルル空港だ」
「あと八時間でロサンゼルスに到着する」と、
行く先がはっきりしているからこそです。

もし機長から、
こんなアナウンスが流れたらどうでしょうか。
「皆さん、
当機はただ今、順調に航行しておりますが、
降りるところがありません。
燃料はあと五時間ほどでございます。
その間どうぞ、空の旅をゆっくりとお楽しみください」

皆、不安で狼狽し、
何はさておき無事降りる場所はないかと、
必死に求めるのではないでしょうか。

死後がはっきりしないのは、
行く先分からぬ飛行機の乗客と同じ。
これほどの大事は人生にありません。

人生の悲劇は、
おそかれ早かれ死なねばならないところにあります。

この死への不安があればこそ、
真正面から死と取り組まねばならないのです。

ここに
死を越える永遠の生命とは何か、の真実の仏法への入門があるのです。

仏法は常に臨終の覚悟で聞法せよと無常観が厳しいのは、その為であることを知って下さい。

この確実な未来(死) を
「往生一定」(いつ死んでも浄土往生間違いない身になったこと) と明らかにするのが仏法の目的です。
弥陀に救われ、いつ死んでも無量光明土(阿弥陀仏の極楽浄土) 間違いなしとハッキリすれば、
この世から光明の広海(往生一定の身になったこと。絶対の幸福) に浮かぶ素晴らしい人生となりますから、
そこまで聞いてください。

LifeCLIPS 過ぎゆく風072.gifご覧ください







.





.

[PR]
by sos-wind2 | 2015-07-13 12:39 | なぜ生きる | Comments(0)

猫暮らししてる絵描きのブログです


by 過ぎゆく風