続・暮れゆく日々の足跡

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西洋文明はお釈迦さまの手のひらの上をうろうろしている

西洋の文明の、物理学、哲学、心理学、経済学など、

どれほど進歩しても、2600年前にお釈迦さまの説かれた

仏説を証明するだけで、

今後進歩すればするほど、仏教に近づくだけであることが

書かれています。


孫悟空がキント雲で世界の果てを目指しても、

結局、お釈迦さまの手のひらの外へは

抜け出せないのです。


仏教は、お釈迦さまが仏智を体得し、

宇宙の真理を説かれたものです。


つまり、三世十方(いつでもどこでも)を貫く真理を

説かれたものということであり、

信じる信じないの一宗教的なものではないということなのです。


そのお釈迦さまは、我々の後生に一大事があると言われています。


一息切れれば、気の遠くなるほどの長期間、

苦しみのた打ち回る世界に堕ちると言われているのです。


因果応報なるが故に、来世なきにあらず。

と言われ、死んでもなくなることはないのです。


恐るべき後生があるのです。



※長文ですので、お時間のある時に読んでいただけたら幸いです。


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①東洋の世界観

世界はどうなっているのか~物理学~


「まさか物理学より広い世界観はないでしょ?」

とあなたは思っていませんか?


天才的な物理学者たちは、

驚くべきことを発見しています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・


●2000年前に物理学を先取り

20世紀の爆発的な科学の進歩によって、

ミクロの世界から大宇宙まで、

物理学は急速に自然のしくみを解き明かしました。


その現代物理学の柱が2本あります。


相対論

まず一つ目は、時間と空間の関係を解明し、

現在はカーナビなどに使われている『相対論』です。


光に近い速度では、時間がゆっくり進み、

空間はゆがんでしまうという想像を絶する理論です。


たった一人で作りあげた天才、アインシュタインが、

何と、物理的な考えを究極に突き詰めていくと、

仏教に説かれる概念と、

酷似したものがあると言っているのです。


さらに、次のようにも言っています。

「現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれるものが

あるとすれば、それは仏教です。」



量子論

もう一つは、ミクロの世界を解き明かし、

パソコンや携帯電話、半導体などに使われ、

現代生活になくてはならない『量子論』です。


その内容は、

「すべての物質は波であり、粒子である」という、

これまた想像を絶するものでした。


ところが、量子論をつくった代表的な3人、

ボーアと、ハイゼンベルク、シュレーディンガーも、

東洋思想を学んでいます。


量子論の父、ノーベル賞物理学者

ニールス・ボーア(18851962

原始物理学論との類似性を認識するためには、

われわれは仏陀や老子といった思索家が

かつて直面した認識上の問題にたち帰り、

大いなる存在のドラマのなかで、

観客でもあり演技者でもある我々の位置を

調和あるものとするように努めねばならない。


波動方程式によって

ミクロの世界を

波として説明したシュレーディンガー(18871961

は著書の中で、波動方程式が、

東洋の哲学の諸原理を記述していると語り、

次の言葉も有名です。


西洋哲学へは東洋思想の輸血を必要としている。


ミクロの世界を、粒子として説明した、

ドイツのノーベル賞物理学者

ハイゼンベルク(19011976)は、

日本のすごさの原因を次のように考えています。

過去数十年の間に、日本の物理学者たちが

物理学の発展に対して

大きな貢献をしてきたのは、

東洋の哲学的伝統と、「量子力学」が、

根本的に似ているからなのかもしれません。


その代表、中間子論により日本初のノーベル賞を受賞した

湯川秀樹(19071981)は仏教から多くを学んでいます。


「素粒子の研究に、ギリシャ思想は全く役に立たないが、

仏教には多くを教えられた。」


世界初の原爆を開発した責任者、

語学の天才オッペンハイマー(19041967

は語学に堪能で、仏教も学んでいました。


「原子物理学の発見によって示された人間の理解力は

必ずしもこれまで知られていなかったわけではない。

また、べつだん新しいというわけでもない。


我々の文化にも先例があり、仏教やヒンズー教では

中心的な位置を占めていた。


原子物理学は、いにしえの智慧の正しさを例証し、

強調し、純化する。


「ブーツストラップ(靴ひも)理論」により、

素粒子「クオーク」を用いず、

最新の実験結果を説明した

カリフォルニア大学物理学科長

ジェフリー・チェ(1924~)

は、仏典の説く宇宙モデルと、

自分の理論が同じ概念であると知り、

愕然としたと言います。


1969年のことです。

当時、「東洋哲学」の勉強をしていた高校生の息子が、

大乗仏教について私に話してくれたときの驚き、

悔しさはいまでも鮮明です。

私は、仏教とはおそろしく非科学的な感じの概念と

思っていましたから、

私の理論との結びつきにひどく狼狽しました。

それから、ずいぶん時間はかかりましたが、

当初の狼狽や当惑は、

やがて、畏怖(いふ)の念に変わっていきました。」


その他、微分積分学のライプニッツも

どうやら仏教を学んでおり、

一つの電子軌道に3つ以上の電子が入れない、

「パウリの排他律」で有名なパウリや、

コンピューターを開発した天才数学者ノイマンも、

量子物理学の究極の真理の中に、

数多く共通した仏教の哲学があることを

発見していました。


また、素粒子の世界だけではありません。

1980年代後半に生まれた『複雑系』の研究をし、

シュレーディンガーの主著の日本語訳でも知られる

中村量空(なかむらりょうくう 19482001)は、

「私が仏教の縁起に関心をもったのは、

複雑な世界の実態を説く縁起(因縁果の道理)の世界観が、

現代の複雑なシステムの理解に強いインパクトを

与えるだろうと思ったからである。

人や物の結びつきを説くこの世界観に立てば、

何らかのパースペクティブ(見通し)が得られるにちがいない。

そこから現代科学の探究する複雑なシステムを見れば、

どんなイメージがわいてくるだろうか。

縁起のアイデアを現代科学に生かそうという試みは、

むしろ新鮮な刺激を

サイエンスに与えてくれるような気がする。」

と述べています。


物理学だけではありません。

もともと数学はインドが強く、

ゼロもインドで発見されたのですが、

数学者の中にも、『三平方の定理』の名付け親で、

当時の重鎮だった東大の

末綱恕一(すえつなじょいち 18981970

は仏教を取り入れた数学論を展開しています。

「科学技術の進歩をよく方向づけることのできるのは

仏教ばかりであろうと、

私は絶大な期待をかけている。

キリスト教にはいくつかのドグマ(宗教上の教義)があって、

到底今日の科学と相容れないところがありますが、

仏教は科学を包容することができるはずであります。

この貴重な仏教を、

我々が滅亡させてはならないのであります。


生化学者では、日本生化学会会頭

水原舜爾(みずはらしゅんじ 1915~)氏

仏教は、現代科学にちっとも矛盾しないばかりか、

これから科学が進みゆく究極のところを

先取りした感があります。


逆に、宗教学から科学を眺めると、

東大宗教学教授、

岸本英夫(きしもとひでお 19031964)は、

「世界に数ある宗教の中でも、仏教ほど、

近代的な科学思想と手をたずさえて、

摩擦の少ないものはまれであろう。」

と考えています。


では、これらの学者達は、

仏教の何を評価しているのでしょうか。


それこそ、この後2章で紹介する、

仏教の根幹であり、すべての仏典を一貫して流れる

『因果の道理』です。




釈迦の手のひらでうろうろする孫悟空


最新の物理学でさえ、

2600年前のお釈迦さまに勝てないのか、

次のように言う専門家もあります。


現代の日本における最高の理論宇宙物理学者

池内了(いけうちさとる 1944~)氏は、

「様々な発見をしてきた物理学だが、

物理学者は未だに仏の掌をうろうろしている

存在でしかないのである。」


東大理学部学科卒のサイエンスライター

竹内薫(たけうちかおる 1960~)氏は、

「最先端の宇宙論も、

キント雲で世界の果てをめざしても

お釈迦さまの手のひらからは外へは

抜け出せない孫悟空の物語と

同じように、仏教的な世界観に通じてしまうのだから

仕方がないかもしれない。」

          『アタマにしみこむ現代物理』


・・・・・・・・・・・・・・



②東洋の人間観1

「私は誰?」本当の私。~心理学~

「さすがに心理学より深い人間観はないでしょ?」

と思っていませんか?

心理学こそ、仏教には遠く及びません。



心理学をはるかに先取り

「人間と生まれて一生の間に、

どうしても出会わねばならぬ人が、一人いる。

それは自分自身だ」


と言われるように「自分探し」といえば、

どんな年代もいつか誰かが問題にしています。


今日、心理学関係の、神経科学、行動科学、

認知科学のような、色々な分野の考え方を総動員すると、

「人は自分で思っているほど、自分の心を分かってはいない」

という結論が出てきます。


「これが自分の心だ」と思っている心は、

「意識」と呼ばれるもので、

その下に、私を動かしている「無意識」とよばれる心が

発見されているのです。


ですが「無意識」は、名前の通り、

意識できない心ですから、

西洋で学問的に論じられるようになったのは、

フロイトが1900年に『夢判断』を出版してからです。 

 

ところが仏教では、心を八つに分け、

意識や無意識といわれるもののもっと奥にある

「阿頼耶識(あらやしき)」が本心だとされています。  



東大の比較思想学の権威

中村元(なかむらはじめ 19121999)も、

次のように言っています。


「心理学者のユング(18751961)が到達した認識は、

実は仏教やインド哲学では既に2000年以上前から

説かれていたものであったということが

よく知られています。」


実際、深層心理学という新たな学問体系を開いたユング自身、

著書に中国仏教について次のように記述しています。

「私の患者には、一人の中国人もいなかったのですが、

彼らの心的発展を研究して得たものは、

何千年来東洋の最もすぐれた精神の持ち主たちが苦労して

切り開いた教えと実によく対応していました。」


『戦争と平和』で有名なロシアの文豪

トルストイ(18281910)は、

仏説譬喩経の『人間の実相』の物語を知り、

あまりに自分の心をズバリ言い当てていることに、

次のようにショックを受けています。

「東洋の寓話を読んで、大きな衝撃を受けた。

これ以上、人間の姿を赤裸々に表した話はない。

単なる作り話ではなく、誰でも納得のゆく真実だ。」


また、今日の脅迫性障害治療の世界的権威、

ジェフリー・M・シュウォーツの

『心が脳を変える脳科学と心の力』

によれば、今日の脳科学によっても、人の心は、

この世の物質(脳の化学反応など)によって

決定されるのではないことが明らかになるつつあり、

「仏教哲学では、人の選択は物理的世界の

何ものによっても決定されない。これが真理だ。」


2000年以上も前に、

心が世界を生み出すと教えた仏教が

強いインパクトを与えています。


日本の心理学の第一人者、

河合隼雄(かわいはやお 19282007

も次のように言います。

「仏教はふつういうところの宗教ではない。

それは言ってみれば、『知恵』なのである。」

そういうことは、これまでもよく言われてきた。



③東洋の人間観2

えっ?人工知能にまで?ロボット工学

物理学と心理学の両方に関連し、

人工知能やロボット工学でも、仏典の、

深く精緻な心理分析が活躍しています。


ロボット工学でも息をのむ活躍

ロボット工学に近づく程、

人の心を論理的に学ぶ必要に迫られてきました。


その際、なんと仏典を研究している学者は

一人や二人ではありません。


ロボットコンテストの開催を最初に提唱した

東京工業大学名誉教授 

森政弘(もりまさひろ 1927~)氏は

次のように驚いています。

「唯識仏教では八識(八つの心)に基づいて

心理の詳細巧妙な解析を展開しており、

その精緻さには驚くべきものがある。」


人工知能の開発者、「人工知能の父」と言われる、

マサチューセッツ工科大学教授

マービン・ミンスキー(1927~)は

「人工知能の開発には、当然、

人間の心の構造の研究が大切になる。

ところが、現在の心理学は、十分に教えていない。

そこで、心を専門とする宗教の中に、

人間の心の構造を解明した宗教はないかと調べてみた。

結果、キリスト教やマホメット教も、

ほとんど心のしくみを教えていない。

ところが、仏典には詳しく説かれていた。

釈尊は実に優れた心理学者だ。

コンピューター開発に、仏典が比類なきテキストになる」



ソニーでロボット犬アイボや

二足歩行ロボットキュリオをつくった

土井利忠(どいとしただ 1942~)氏は、

次のように述べています。

「従来は、宗教と科学というと、

両極端にあり、対立するもの、

そして相容れないものと考えられてきた。

たしかに、「ニュートン力学」のレベルの科学は、

宗教とは相容れない。

そして、一般の人が心の中に持っている

「科学」という概念は、

実はほとんどの場合

「ニュートン力学」のレベルにとどまっている。

だから、宗教と科学が対立して見えるのだ。

20世紀に入ってから、科学は大きな変容を遂げた。

アインシュタインの「一般相対性理論」や、

素粒子の物理学である「量子力学」など、

従来の「ニュートン力学」の概念を

大幅に塗り替える理論が確立したからだ。

とくに「量子力学」は、少し深く読むと

宗教的な概念と決して矛盾しないような

解釈が可能になってくる」


慶応義塾大学理工学部工学科 

ロボティックスの前野隆史(まえのたかし 1962~)氏は

文明全般の流れについて

次のように実感しています。

「実存主義は近代哲学よりも釈迦に少し近づいた。

もともと私は科学技術に携わってきたので、

考え方の基本は西洋流の論理であった。

しかし、心や意識について考えれば考えるほど

東洋流のやり方を取り入れることの重要性を

痛感せざるを得なかった。

歴史は、東洋の時代から、西洋の時代へ、

そして地球を一周して東洋の時代へという、

大きな流れだと実感するようになった。」



④東洋の哲理

哲学者はどう思っているの?~哲学~

「仏教より西洋哲学の方がすぐれている」

と思っていませんか?


特に西洋の有名な哲学者たちに聞いてみましょう。


ハイデッガーも絶句

西洋哲学で、存在と時間は切り離せないと

考えられるようになったのは、

20世紀最大の哲学者の一人、

ハイデッガー(18891976)の頃からです。


でも、仏教では常識。

ハイデッガーは、仏教書『正法眼蔵』で

一番有名な「有時(うじ)の巻」を知り、

驚いてしばらく絶句したと伝えられています。


なぜかというと、「有時」とは、「有(存在)は時なり」

ということだからです。


一方、ハイデッガーの主著の題名は、

今は『存在と時間』と訳されますが、

『有と時』ということです。


仏教の存在論、時間論は、

西洋哲学を2000年先取りしていたのです。


驚異の言語学も東洋では常識

ソシュール(18571913)は言語学を研究し、

言葉と物事の結びつきについて解明し、

当時の西洋人に、大きな衝撃を与え、

考え方の大転換を引き起こしました。


ただ、その内容は仏教では2000年前から常識でした。


実存主義の代表者の一人、

カール・ヤスパース(18831969)は、

著書、大哲学者たちに仏陀とナーガルジャナを取り扱い、

次のように述べています。

「仏教の賢者は、もはや水に湿ることのない鴨のように、

世間をつらぬいて進み行く」


仏教の哲理「空」については、

社会学者であり、評論家の小室直樹(こむろなおき 1932~)

氏は、次のように言っています。

「仏教の『空』は、人類が到達した

最深、最高の哲理であろう」


このように、多くの人たちがほめたたえる東洋思想を、

ぜひ一度、学んでみて欲しいと、

西洋の哲学者たちからも次のようにオススメです。

仏教を人生哲学の基礎の一つにすえ、

近代の西洋に仏教を紹介した

アルツール・ショーペンハウエル(19781860

はこう言い、

「私は他のすべてのものより

仏教に優位を認めずにはいられない。

私は一介の案内者にすぎない。

人生の答えは、各自が古典や東洋の宗教を

ひもといて見つけてほしい。」


世界一やさしい哲学書・ベストセラー『ソフィーの世界』

をあらわしたノルウェーの

ヨースタイン・ゴルデル(1952~)氏も、

日本人に対して、次のように述べています。

「大切なのは疑問を持つことです。

『ソフィーの世界』は読者がそれぞれ大切なものを

見つけるための本です。

いわば哲学の入り口にすぎません。

しかし、この本には、西洋哲学のことしか書いてありません。

日本の若い人たちには

仏教や東洋の哲学を学んでほしいと思います」



⑤すぐれた実践

いくら何でもお金は儲からないでしょ。~経営~

仏教といえば、お金に淡白で、貧しくとも清らかなイメージを

持ってはいませんか。

それでは、お金持ちの皆さんに聞いてみましょう。


仏教は、高度な哲学を含んでいますが、

日常生活と離れない、とても実践的な教えなので、

普段の人間関係でも、

すぐれたコミュニケーション能力を発揮します。


例えばビジネス書なら、スティーブン・コヴィー氏の

『七つの習慣』は、

全世界史上最高の大ベストセラーとなりました。

そのキモである第六の習慣『相乗効果を発揮する』は、

人と人との団結によって、

人々に内在する大きな力を

奇跡的に引き出すことだそうですが、

これは、他のすべての習慣の目的であり、

人生において最も崇高な活動と評価しています。


ところがコヴィーは、

『これを仏教では中道と呼ぶ』と言い、

実は他の習慣にも、

東洋的アプローチがとられています。


特に第四から第六の習慣は、

仏教では、相手を幸せにするままが

自分が幸せになる「自利利他」ということです。








だから相手の立場に立つこと『自利利他』を心がけて、

巨万の富を築いている人が沢山あります。


有名な高島屋は、『自利利他』を心がけています。

「高島屋が発展した鍵「自利利他」は、

昔から変わらぬ当店の家風であります。」

                (高島屋二代目)

 


京セラの創始者、稲盛和夫(いなもりかずお 1932~)

氏などは、次のように言っています。

「私は、いつも簡単な仏教の本をもって歩き、

飛行機のなかであろうと、どこであろうと、

閑があれば読んでいます。

そのくらい繰り返しよんでいても、

すぐに忘れてしまい、なかなか実行できません。

それでも、そうでなければならないと思い続けること、

毎日心がけることが大切だと私は思っています。


(六度万行)普通の人間が生きるための知恵として、

ぜひ取り入れるべきだと私は信じます。


六度万行とは、

布施(ふせ)・・・・・・・・・親切

持戒(じかい)・・・・・・・・言行一致

忍辱(にんにく)・・・・・・・忍耐

精進(しょうじん)・・・・・・努力

禅定(ぜんじょう)・・・・・・反省

智慧(ちえ)・・・・・・・・・修養


また、100年ほど前の自己啓発の古典、

ジェームズ・アレンの「原因と結果の法則」に、

仏教は明らかに影響を与えていると言われていますが、


アメリカでは800万部の大ベストセラーになった

「小さいことにくよくよするな」

を書いた臨床セラピスト・心理学者の

リチャード・カールソン(19612006

も、仏教を学び、取り入れています。

「仏教の教えでは、苦難は人の成長と

心の平和に欠かせない要素だとみなされている」


また米国PR会社日本法人社長

田中慎一(たなかしんいち 1955~)氏は、

コミュニケーションについて、次のように語っています。

「欧米人の頭の中には、

そういった禅とか仏教的な思想は入ってないから、

もっと科学的に考えてしまうんですね。

どちらかというと。

相手と一緒になれるわけがないじゃないかと。

あとは無限大の発想でいわゆる無限に近づいていくと

説明するのがギリギリのところでしょうね。

でも、東洋的にはよくあるでしょう。

禅の修業であの山と一体になれとか。

『ラストサムライ』なんかが向こうで流行るのも、

そういった東洋思想的な不可思議さに

ひかれ始めている証拠なんでしょう。

コミュニケーションというのは、

相手の立場に立てればこれほど強いものはないんです。

この辺は圧倒的に東洋思想のほうが強いですね。

案外、コミュニケーションの分野では

日本が世界をリードしていっても

おかしくないと実は思っているんですよ。」



仏教経済や「共生」

このように個人的な成功哲学はもちろん、

社会全体としても、

たとえばイギリスの有名な経済学者

シューマッハ(19111977)は、

世界的ベストセラー『スモール イズ ビューディフル』で、

再生不可能な資源に立脚するのは愚かであり、

再生可能な資源によって小さな範囲で自己循環する

『仏教経済』を提唱しています。


「正しい経済成長の道は、唯物主義者の無頓着と

伝統主義者の沈滞の間の中道、

つまり八正道の『正しい生活』を見出すこと。」


六本木プリンスホテル(東京)、パシフィック・タワー(パリ)、

ゴッホ美術館 新館(オランダ)

クアラルンプール新国際空港(マレーシア)

などを作った世界的建築家の黒川紀章

(くろかわきしょう 19342007

は、仏教を元に『共生』という言葉を作りました。

「私が1960年につくった新しい概念である

共生の思想の原点には、

大学で学んだ「唯識思想」があります。

仏教思想として4世紀にまとめられたもので、

「二元論」と違って、善と悪を超え、

すべてを一つのものとして扱うことが感動的でした。


明治以降の日本は合理的精神に基づく二元論、

つまり精神と肉体、理性と感性、都市と自然、

科学と芸術、個と全体と対比させる考え方のもとに

発展してきました。


確かに日本が近代化を進めるなかで、

科学技術や経済の発展には必要な思想でした。


ですが、私にはそれだけでいいのか

という思いがありました。


すなわち、対立、矛盾、あるいは

厳しい競争関係にある二者、

または複数の相手がそれでもなお、

相手を互いに必要とする関係がある。


それは単純な二元論ではなく東洋的な哲学です。

互いに相携えることで

新しい時代を切り開くことができると考えたのです。」



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


お釈迦さまの説かれた仏教は、

三世十方を貫きます。

つまり、いつでもどこでも通用する教えなんです。

たとえ、1億年後でも、宇宙へ飛び出しても通用することなんです。

それを道理といいます。


仏教の根幹は因果の道理です。

本当に理路整然としていて、ごまかしのない、

どんな疑問にもしっかりとした答えが返ってくるのが

仏教です。

聞けば聞くほど、お釈迦さまの言われていることは

その通りだなと分かります。


今後、科学が進歩すればするほど、

仏教に説かれていることを実証していくことになると思います。


すべての物は波動でできていると段々分かってきましたが、

お釈迦さまはそれを2600年まえに、色即是空といわれ、

当たり前に説かれています。


人間界は我々の心が作り出したものであり、

実体がないことを今後科学が証明するでしょう。


お釈迦さまが言葉を尽くして、宇宙の真理を説き明かしたのは、

我々の後生に一大事があることを知らせるためです。

我々に幸福になってもらうためには、

まず後生の一大事を知らせねばならない、

そして阿弥陀仏に救いを求めさせねばならないのです。


それ一つのためにお釈迦さまは、7千余巻の膨大なお経を説かれたのです。



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by sos-wind2 | 2017-02-10 11:30 | なぜ生きる | Comments(2)

まずは我が身自身を救ってください

もうすぐお盆、ということで
また姉と水曜日朝5時にお墓のそうじ(草取り)に行ってきました。
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やがてお盆が来ますので、
お盆の意義をお話ししたいと思います。


※長文ですので、お時間のある時に読んでいただけたら幸いです。


俗にお盆といいますが、
正しくはウラボンといいます。
『仏説盂蘭盆経』から起こったものです。

このお経に、
どんなことが説かれているのかといいますと、
お釈迦さまの十大弟子の一人に目連(もくれん)という人があります。

目連尊者は、
神通力(人間の考えの及ばぬ、霊妙自在の力) 第一と称され、
特に孝心の深い人でありました。

その目連が、
神通自在力を得て三世を観ました時に、
痛ましいことに亡き母が餓鬼道(食べ物も飲み物も、炎となって食べられず飲まれもせず、飢えと渇きで苦しむ世界) に堕ちて苦しんでいることが分かったのです。

彼は深く悲しんで、
直ちに、鉢に飯を盛って母に捧げましたが、
喜んで母がそれを食べようとすると、たちまち、その飯は火炎と燃え上り、どうしても食べることができません。

鉢を投げ捨てて泣きくずれる母を、目連は悲しみ
「どうしたら、母を救うことができましょうか」
と、釈尊(お釈迦さまのこと) にお尋ねしました。

その時、釈尊は、
「それは、そなた一人の力では、どうにもならぬ。
この七月十五日に、飯、百味、五果などの珍味を、
十方の大徳、衆僧に供養しなさい。
布施の功徳は大きいから、母は餓鬼道の苦難からまぬがれるであろう」
と教導されました。

目連尊者が、釈尊の仰せに従ったところ、
母は、たちどころに餓鬼道から天上界(迷いの世界では、楽しみの多い世界) に浮かぶことができ、
喜びの余り踊ったのが、盆踊りの始まりだと言う人もあります。

盂蘭盆は、
この目連尊者の故事から先祖供養の日となって、今日に続いているのですが、
一体、これは、私たちに何を教えているのか、味わってみましょう。


ウラボンという梵語(古代インドの言葉) は、
倒懸(とうけん) ということです。
倒懸とは、
「倒(さか)さ に懸(か)かれる者」
ということですから、
『盂蘭盆経』とは、
「倒さに懸かれる者を救う方法を教えた経」
ということなのです。

果たして、
倒(さか)さまに懸(か)かって苦しんでいるのは目連尊者の母だけでしょうか。

死後にだけ、餓鬼道があるのではありません。
腹だけがばかに大きく、皮骨連立の奇形動物だけを、餓鬼だと思っていたら大間違いです。

迷いを迷いとも知らず、
真実を真実と信じられず、
迷いを真実と誤解して、
苦しみ悩んでいる私たちは、
仏の眼からごらんになると、みな倒(さか)さに懸(か)かって苦しんでいる餓鬼なのです。

親鸞聖人は『歎異抄』(親鸞聖人のお言葉が記されている、日本で最も有名な古典の一つ) に、

「火宅(かたく=火がついた家のこと) のような不安な世界に住む、煩悩にまみれた人間の、すべては、
そらごと、たわごとばかりで、真実(まこと) は一つもない。
ただ、弥陀より賜った念仏のみが、まことである」

とおっしゃっています。


キリのある命を持ちながら、
キリのない欲を満たしてから、仏法を聞こうと思っている人の、いかに多いことでしょう。
倒(さか)さに懸(か)かっている姿です。

金もあり、財産もあり、名誉、地位もあり、妻子ある者は、それらによって苦しみ、
それらのないものは、
それらを求めて悩んでいるのです。

有るも苦なら、
無いも苦です。

なければ欲しい、
あっても欲しい、
欲しい欲しいと、飢え続け、渇き続け、ウラミ続け、満足ということを知らず、苦しんでいる餓鬼ばかりです。

すべての考えが顛倒(てんとう) していますから、
四方八方、ただ愁歎の声のみが満ち満ちているのです。
まさしく、これが餓鬼道の相(すがた) です。

物を求め、物を惜しみ、闘争諍乱の世界、
この深刻な現実の自己を凝視する時、
餓鬼こそ自己の実相(真実のすがた) であることに驚くのです。

亡き先祖のことばかりを案じて、
我が身が餓鬼であることを忘れています。

お盆は、
亡き先祖を救う日ではなく、
今、現に、倒(さか)さに懸(か)かって飢え、渇き、苦しみ続けて、
未来永劫、流転せんとしている、我が身自身を救う、聞法精進の日であることを忘れてはならないでしょう。


それでも、
今は亡き人やペットたちに、
私がしてやれることはないものでしょうか?

……という問いに、
有名な『歎異抄』で、
親鸞聖人はこう仰っています。

「ただ自力をすてて急ぎ浄土のさとりを開きなば、
六道四生のあいだ、
いずれの業苦に沈めりとも、
神通方便をもってまず有縁を度すべきなり」
(歎異抄五章)

“ただ、はやく本願を計ろう自力の心を捨てて弥陀に救い摂られ、
浄土で仏のさとりを開けば、
どんな六道(苦しみの絶えない6つの世界。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上界をいう)・四生(一切の生物のこと) という迷いの世界で、
苦しみに沈んでいようとも、
仏の方便力(仏が苦悩の人々を、真実の幸福に導く力) で縁の深い人々から救うことができよう”

生きている今、
阿弥陀仏に救い摂られた人は、
死ねば弥陀の浄土へ往って仏のさとりを開き、
縁のある人を救うことができるのだ、
それが真の供養なのだよ、
と教えられています。
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お墓掃除に行った水曜日は、どんより天気で
階段の下から太陽の光が射しませんでした。
1年に1度の写真です。

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by sos-wind2 | 2016-08-12 05:00 | なぜ生きる | Comments(0)

大事な人、大事なペットを亡くした時

※長文ですので、お時間のある時に読んでいただけたら幸いです



『大事な人、大事なペットを亡くした時』


大事な人、大事なペットを亡くした時
『あの世はあるんだろうか。
 自分も死んだらまた、会えるんだろうか』
と、思います。。。


釈尊(お釈迦さま)は
その答えをハッキリと教えておられます。


一切の衆生は
各自の過去の業によって
善因善果、悪因悪果、自業自得の因果の大道理に順じて、
種々の形に身心が変って
遠く独り去ってゆくものである

と『大無量寿経』に説かれています。


死ねば
この世の「私」は
それで終わりです。


死とは「私」との別れなのです。


固定不変な「我」
というものはない(無我)と、
釈尊は教えられています。

けれど、
私たちの迷いはホントに根深く、
変わらぬ我があると思っています。


死んだ後も「私」があって
先に死んだ人やペットに会えるのなら、
私たちに食べられる為に殺された動物、鳥や魚、虫たちはどうでしょうか……


私たちは
死ぬと
種々の形に身心が変ってしまうのです。


人間が死んで次の生を受けるまでの期間を
中有界といいます。

中有界の形状は、
死ぬ前に人であれば人の形、
猫であれば猫の形です。

此の世界(中有界)は
地獄や諸天のように、
化生(夢のような生まれ方)ですから
胎生の様に受胎生産等の順序を経ず
忽然と生じ忽然と消え去ります。

中有界の寿命は限定されず
身体は極微細な物質によりて構成せられ
肉眼で見ることは出来ません。


此の中有界は長く住することを好まず
速かに次生の境界を求めて生命を托することを切望する故に
短い者で七日間、
長く逗留する者でも七、七、四十九日間です。


彼らは失業者が職場を求めて走り廻る様に早く自分の生れる場所を求めます。

併し人間や動物に生れる者は上等の部類で大概の者は地獄へ矢の如く堕ちていく。


私たちの不滅の業力は
流れ流れて因果相続して窮りなく、
今生の果報尽きても
来世の新なる果報を引き、
幾度も生死輪廻して
止むことがありません!

車輪が果てしなくまわり続ける様に
私たちは
六道 (地獄界、餓死界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)を

輪廻 (果てしなく周り続ける)
しているのです。


六道は苦界です。
どんなに幸せに思い通りに生きたとしても、
やがて独り死んでいかねばなりません。

次にいつ
人間に生まれることができましょうか………


人間に生まれた時にだけ
この苦しみの世界から離れられるのです。
その方法を釈尊は教えておられます。


人間でいられる今
迷いの六道から出離して、
二度と迷わぬ極楽浄土に生まれる方法を
釈尊は教えておられます。
それが仏教です。

死人に説かれた経典はありません。
生きている今、
人間でいられる今でなければ
六道から離れることは出来ないのです。

2016/06/13

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写真はカイちゃんです。
チィちゃんのきょうだいで、同じ日同じ母さんから生まれました。
カイちゃんは落ち着いた感じのコだったけど、
ホントは寂しがり屋で甘えん坊でした。
もっともっと甘えさせてあげたかったです。




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by sos-wind2 | 2016-06-13 08:48 | なぜ生きる | Comments(0)

私が死んだ後に行くところ

※長文ですので、お時間のある時に読んでいただけたら幸いです


『私が死んだ後に行くところ』

死ぬとどうなるか分からない心を
無明の闇といいますが、

その心を晴らさずに
そのまま死ぬと、
大変なことになります。

お釈迦さまは、
『必堕無間』と説かれ、
後生(死後)、無間地獄に堕ちると教えられています。

(無間地獄とは、地獄の中でも一番苦しみの激しい地獄で、休む間もない大苦悩の世界)

何故、
地獄へ堕ちるのか、

私は悪しかできないからです。

心で、口で、体で
悪のし放題なのが私(人間)です。

簡単に理解してもらえるのは、殺生です。

一日にどれほどの動物・昆虫を
殺しているでしょうか。

喜んで食べていれば、
同罪だとお釈迦さまは教えています。
(食べる人がいなければ、殺す人もいなくなります。
食べる人が、殺してくれと依頼したのと同じだからです。)

私は生まれ変わり、死に変わりして、
人間界、地獄界、畜生界、餓鬼界、修羅界、天上界の、
迷いの世界の六道を
輪廻転生しているのです。

過去には、
私が殺されて
食べられたこともあるということです。

だから、
虫も動物も私(人間)の命も、尊さは同じです。

畜生(虫も含む)を殺すのも、
人間を殺すのも同じ罪なのです。

ヒトラーは、600万人の人間を殺しました。

あんな奴は地獄に堕ちて当然だ、と思いますが、
私も同じことをやっているのです。

まいたタネは必ず生える、
やった者に必ず返ってくるのです。
〈因果の道理〉

だから、
死ねば大苦悩の世界に堕ちると
お釈迦さまは教えているのです。


仏教は『後生の一大事』を知ることから始まり
『後生の一大事』の解決で終わります。

『後生の一大事』とはどんなことか分からなければ、
仏教を何十年聞いても、
本を何百冊読んでも、
毛頭、分かるものではありません。

仏教学者や僧侶を自認し、
どれだけ著書や講演で
それらしい話をしていても、
肝心の『後生の一大事』を説かねば、
仏教にはならないのです。

『後生の一大事』とは

「人間死んだらどうなるか」
ということで

お釈迦さまは、
『必堕無間』と説かれ、
後生(死後)、無間地獄に堕ちると教えられています。

死ねば大苦悩の世界に堕ちることを
『後生の一大事』と
お釈迦さまは教えているのです。


ほとんどの人は、
「死んだら極楽浄土で仏になれる」
と思っているのではないでしょうか。

ラジオ番組で、
ある人がこんな説教をしていました。
「お念仏は阿弥陀さまの、必ず救う、
決して捨てることはない、摂取不捨という
お慈悲のはたらきです。
既にこの私を包み込んでいる
阿弥陀さまのはたらきの、
真っ只中にいるのです」
………
……なんだか、もう誰もが
救われているような気にさせる話です。
これが堂々と、公共の電波で
流されているのですから、
多くの人が
「念仏さえ称えておれば、死んだら極楽」
と聞き誤るのも、当然でしょう。

お釈迦さまは『大無量寿経』というお経に、

「易往而無人」(いおうにむにん)
(往き易くして、人無し)

と説かれています。

弥陀の極楽浄土へは、
「往き易いけれども、往っている人が少ない」
という意味ですが、
おかしいと思うでしょう。

「往き易い」のならば、
「人が多い」はずだし、

「少ない」とすれば、
「往き易い」とはいえないからです。

では、
お釈迦さまの言葉は、何を意味するのでしょうか。

浄土へ「往き易い」と言われるのは、
現在ハッキリ、阿弥陀仏に
救い摂られた人だけのことです。

これを親鸞聖人は、

『真実の信心をえている人だけが、
本願の実報土(じっぽうど)に
よく入ると知るべし』
(真実の信心をえている人だけが、
浄土へ往けるのだよ)
と教えておられます。

「真実の信心をえた」とは、
弥陀の本願に救われたこと。

『信心獲得(しんじんぎゃくとく)』とか
『信心決定(しんじんけつじょう)』ともいわれます。

「弥陀の本願」とは、

“必ず浄土へ往ける大満足の身に、
平生(生きている今)の一念で救い摂る”

という阿弥陀仏のお約束。

ですから、
苦しみの海(人生)を明るく楽しくわたす、
大きな船に譬えられます。

この本願の船に乗れば、人生が、
浄土への楽しい航海になるのです。

歩行の旅は山あり谷ありで難渋しますが、
船旅は船頭まかせで快適になる。

弥陀の本願の大船に乗れば、
大悲の風にうちまかせて
安楽の浄土に往けますから、
これほど「往き易い」ことはありません。

ではなぜ、
そんな「往き易い」浄土に、
「人が少ない」と言われるのでしょうか。


親鸞聖人の説明は、こうです。

「易往而無人」というは、
「易往」はゆきやすしとなり、
本願力に乗ずれば本願の実報土に生るること
疑なければ往き易きなり、
「無人」というは、ひとなしという、
ひとなしというは、
真実信心の人はありがたき故に
実報土に生るる人稀なりとなり(尊号真像銘文)

「弥陀の浄土へは『往き易い』と、
釈尊が言われているのは、
大悲の願船(弥陀の本願)に
乗った人のことである。
弥陀のひとり働きで往く世界だから、
『易い』という言葉もいらぬ易さだ。
『人なし』と言われるのは、
大悲の願船に乗る人が
稀だからである」

蓮如上人の解説も同じです。

これによりて『大経』(大無量寿経)には
「易往而無人」とこれを説かれたり。
この文の意(こころ)は、
安心を取りて弥陀を一向にたのめば、
浄土へは参り易けれども。
信心をとる人稀なれば、
浄土へは往き易くして人なし、
と言えるは、この経文の意なり(御文章二帖七通)

「安心を取る」も「信心をとる」も、
“弥陀に救い摂られて、本願の大船に乗ったこと”
ですから、意味はこうなります。

「弥陀に救い摂られ、大悲の願船に乗った人は、
浄土へは『往き易い』けれども、
大悲の願船に乗る人が少ないので
釈尊は、『往き易くして、人なし』
と言われているのである。

この「信心決定」している人が極めて少ないことを、
蓮如上人は悲嘆なされて、
『御文章』の至るところで、教戒され、

信心決定しなければ一大事だから、

「この信心を獲得せずば、
極楽には往生せずして、
無間地獄に堕在すべきものなり」(御文章二帖二通)

と、ご勧化なさっていられるのです。


仏教は、
この地獄必定の一大事に驚き、
この一大事の解決で終わるものです。

この「後生の一大事」が分からなければ、
仏教は金輪際、分かるものではないのです。

_________


この「後生の一大事」のあることを
頭では分かっていても
心の底では全く分かっていない私。

明日死ねば、今晩死ねば
もう後生なのに……

チィちゃんは
その臨終に
私に
訴えていた。

自分が苦しいのに
苦しいのに
優しい目をして私を見てた
瞬きをずっとし続けてくれた。

手を動かしていた。

死は必ず訪れるぞ。
ほら、もう自分は往くよ。。。
この死から学びなさいよ。
また忘れたら、もう次はないぞ。。。

臨終では間に合わないぞ
屍の心に今泣かねばならない!

後生は一大事だ
後生を考えよ。

チィちゃんが
そう言っていた。
あの目は
そう訴えていたはず。
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by sos-wind2 | 2016-06-03 10:57 | なぜ生きる | Comments(0)

チィちゃんの最期に……

※長文ですので、お時間のある時に読んでいただけたら幸いです
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(写真は昨年の秋の物です。私の膝の上にいます)



「チィちゃんの最期に……」


天上天下 唯我独尊

この言葉を、多くの人は
「この世で一番偉くて尊いのは、ただ私一人である」と、
威張っているかのように思っています。

しかし、釈尊の「天上天下 唯我独尊」の意味は、
そのような思い上がったことをおっしゃったものではないのです。

「唯我独尊」の「我」というのは、
釈尊だけのことをおっしゃったのでなく、
我々、人間ということなのです。

では、
「独尊」とは、どういうことかといいますと、
たった一つの尊い使命ということで、
自分一人が尊いということではありません。

ゆえに、
「天上天下 唯我独尊」ということは、
天上・天下広しといえども、
我々人間にしか果たせない、
たった一つの聖なる目的があって、
生まれてきたのであるということです。


私たちは
人間に生まれる前
種々の世界に生まれ変わり、
死に変わりしてきました。

ある時は犬、ある時は猫、
鳥や獣に生まれては殺され、
餓鬼に生まれては飢え渇き、
地獄で苦しみにのたうち回っていました。

遠い過去から私たちは、
そのいずれの世界にも生まれ、
どんな姿形も受けてきました。

そして今
人間に生まれることができたのです。


人間に生まれた時でなければ出来ないこと、
それは、もう二度と
苦しみ迷う世界に生まれないようにすることです。

釈尊が七千余巻の経を説かれたのは
この方法、ただ一つを教える為でした。
生きている人間、
私たちに説かれたのが仏教なのです。


………


阿弥陀さまの浄土で逢おう。
きっときっと阿弥陀さまの浄土で、また逢おう!

チィちゃんに
私は何度も言った。
チィちゃんは瞬きしてこたえた。
手を動かし、私を触ろうとする。
私はチィちゃんを撫でる。


死に際の苦しみは
それをさく。

可愛い甘えん坊のチィちゃんが
あんな低い声を出し苦しみ悶えて死んだ。



阿弥陀様の浄土でまた逢おう!
と言ったけれど
簡単に逢えるものではない。

チィちゃんは仏縁をもって人間界に生まれ、
阿弥陀仏の本願にめぐり合わねばならないし、

私は阿弥陀仏の本願を真剣に聞き、
聞即信の一念に信心決定しなければならない。

死んだら自動的に阿弥陀仏の浄土に行けるわけではないのです。



死の少し前の苦しい呼吸をしてるチィちゃん……
私はチィちゃんの目の前に横になって
チィちゃんを見つめた。

「阿弥陀さまの浄土で必ずまた逢おうね」

チィちゃんは瞬きして私にこたえてくれてる。
手を動かして私を触ろうとしてる。
私はチィちゃんを撫でる。

チィちゃんはジンちゃんの臨終の時と同じように
起き上がろうとする。
私はいつものように起こしてあげた。
でもすぐに横たわる。

突然襲う死に際の苦しみ!
驚くほど低い低い声で苦しみ悶えるチィちゃん。

もう苦しむな、苦しむなとチィちゃんを撫でる。

最期に
短く数回ないて、
息が途切れはじめ、
動かなくなる

臨終とは、こんなに厳しいことを
チィちゃんが見せてくれた。

こんなに苦しい悲しい生死を
私もチィちゃんも全ての人も
全ての動物も虫も鳥も魚たちも……
みんなみんな繰り返し続けている。


この六道の苦しみの世界から離れる方法を
釈尊は教えていかれた。
それが仏法。
死んだものに説かれた経典はありません。
生きている人間に説かれたのが仏教なのです。

人間に生まれた時でなければ
仏法は聞けません。

私がチィちゃんにしてあげられること
死んだ後に持っていけるものは仏縁です。
猫に生まれたチィちゃんだけど
チィちゃんだった時に仏縁があった。

その縁を持っていつか必ず……



チィちゃん頑張ったね。
頑張って生きたね。
2度も奇跡の生還して。
あれは、ホント驚いた。
あの時の喜び!
ホントにすごかったね、チィちゃん!



チィちゃんが先週の火曜日
午後4時18分頃に亡くなって
ちょうど1週間過ぎました。

文章がとっちらかってます。
ドン引きされる方もおられると思いますが、
私の心情を綴りました。

2016/05/03
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by sos-wind2 | 2016-05-03 16:38 | なぜ生きる | Comments(6)

魂の痛み

※長文ですので、お時間のある時に読んでいただけたら幸いです
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「魂の痛み」

人は死にゆく存在。

ガンなどの病気で終末期に至った患者には
「スピリチュアルペイン」という苦しみの起きることが、
最近の医学研究で解明されています。

例えば、ガンが進行した人には、
さまざまな苦痛に対応する緩和ケアが行われます。

ガンになっても痛みさえなくしてくれたら
死ぬのは何ともないよと言う人がありますが、
そんな簡単なものではありません。

ガンを告知された人には、
身体的苦痛、
精神的苦痛、
社会的苦痛があるといわれてきました。
しかし
それだけではなく、
多くのガン終末期患者の観察研究により、
「スピリチュアルペイン」と呼ばれる苦痛があることが分かってきました。

スピリチュアルペインとは、
魂の奥底から噴き上がってくる心の叫びです。

精神的苦痛には、抗うつ剤や抗不安剤が効果的ですが、
スピリチュアルペインは、
生命の根元にかかわる深いレベルの痛みであり、
効果的な薬はありません。
 次のような苦しみです。

●私は何のために生まれてきたのだろうか
(生きる意義に対する問い)

●どうせ自分はもう長いことないのに、頑張っても仕方ない
(希望がないという訴え)

●こんな私を誰も助けてはくれない
(孤独感の訴え)

●私は死んだらどうなるのか
(死後の問題)

などの悲嘆として現れます。

そして、
この魂の叫びは、
ガン患者だけではなく、
また死を目前にした人だけでもなく、
自覚はしていませんが、
生きているすべての人が本来抱えている問題なのです。


すべての人の最も確実な未来が死です。
それに例外はありません。

「死ねばどうなるか」は、
だから、すべての人の大問題。
無視できることではありません。


後生(死後)ハッキリしない不安を仏教で
「生死の一大事」(しょうじのいちだいじ)
とも
「後生の一大事」(ごしょうのいちだいじ)
ともいわれます。

仏教の目的である「抜苦与楽」(ばっくよらく)の
「苦」とは、
この「後生の一大事」の苦しみをいい、
「抜苦」とは
この一大事を解決することです。

「与楽」とは、
大宇宙の仏方の本師本仏(大宇宙に無数にまします諸仏の師匠。無上の仏)である阿弥陀仏の本願力によって、
未来永遠に変わらぬ絶対の幸福にしていただくことです。

この抜苦与楽の身になることが
私たちの人生の目的なのです。



スピリチュアルペインは、
仏教で教えられている無明の闇(後生暗い心)の表出です。

スピリチュアルケアの重要性を説く人々は、
それがケアできるという前提に立っていますが、
仏教では、
後生の不安は人間の力でどうにかなるものではなく、
平生(生きている今)に
阿弥陀仏のお力によって解決していただく、
と教えていただいています。

ケア(一時的癒やし)ではなく
キュア(治癒)。

弥陀は、
「無明の闇」を
生きている時に破り、
後生の苦しみを完治させてくだされるのです。

大宇宙のすべての仏が師と仰ぐ阿弥陀仏は、

「全人類の無明の闇を破り、
 絶対の幸福に必ず救う」

という本願(お約束)を建立なさっています。

絶大なるこの本願力によって、
平生の一念(1秒よりも短い時間の極まり)に
無明の闇が破られ、
後生明るい心に救われますから、

"すべての人よ、
早く阿弥陀仏に助けていただきなさいよ"

とお釈迦さまは、
一切経の結論として、

「一向専念無量寿仏」
(弥陀一仏に向き、弥陀のみを信じよ)

を説かれました。

これは地球のお釈迦さまだけのことではありません。
すべての諸仏や菩薩も皆、
弥陀一仏を褒めたたえ、
早く無明の闇を破っていただき、
必ず浄土へ往く身になりなさいと教え勧められているのだよと、
親鸞聖人はこう和讃に仰っています。

「無明の闇を破するゆえ
 智慧光仏となづけたり
 一切諸仏三乗衆
 ともに嘆誉したまえり」(浄土和讃)

(阿弥陀仏を、
 一切の諸仏や菩薩たちが
「智慧光仏」と絶賛するのは、
 苦悩の根元である後生暗い心を破るお力が、
 阿弥陀仏にのみあるからである)


2016/05/01
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by sos-wind2 | 2016-05-01 09:45 | なぜ生きる | Comments(2)

お経は“生きている人”に説かれたもの

最近は、
「法事・法要の僧侶手配サービス」なるものが、
あるそうですね。


“今まで、お寺との関わりがなく、依頼の仕方が分からない”

“相場が分からず、いくら払えばいいか分からない”

“僧侶を呼びたいが、檀家にはなりたくない”

等の理由から、利用につながっているようです。


ひとくちに「法事」「法要」といっても いろいろあって、、

インターネットの あるページには、

初七日法要の読経、四十九日法要の読経、百ヵ日法要の読経、

一周忌法要の読経……、などなど、ズラリ並んでいます。

どんな法事でも「読経」があることが 分かります。


「読経」とは「お経を読む」ことですが、
そもそも「お経」とは、どんなものでしょう?


***
一般に、「お経」とは、
漢字ばかりで難しいイメージが強く、

ワケの分からない話をしているのを耳にすると、
「あれは、お経のようだね」と言われたりします。

また、「お経」が読まれるのは、たいてい葬式や法事の時ですから、
「読経」は、亡くなった人を供養するためのものと、
思っている方も多いでしょう。


しかし、本当は、そうではないんですね。

それは、
「お経」が どのように成立したかを知られたら、
納得されると思います。


***
「お経」には、
お釈迦さまの教えが 書かれています。


お釈迦さまは、
約2600年前、インドで活躍なされた方です。

35歳12月8日に大宇宙最高の仏覚(仏のさとり)を開かれ、
80歳2月15日にお亡くなりなるまでの45年間、
すべての人が本当の幸福になれる教えを説かれました。

それが、仏教です。


その お釈迦さまの教えを記録したものが「お経」であり、
全部で、七千余巻(七千冊以上)もあり、
総称して「一切経(いっさいきょう)」と呼ばれているのです。


***
では、どのようにして「お経」は できたのでしょう?

お釈迦さまが、
ご入滅なされた(お亡くなりになった)あと、

優れた500人のお弟子が集まり、
お釈迦さまのご説法の内容をまとめました。

これを「仏典結集(ぶってん けつじゅう)」といいます。

この時、中心的役割を果たしたのが、
阿難(あなん)というお弟子でした。

『大無量寿経(だい むりょうじゅ きょう)』に
「仏告阿難(仏、阿難に告げたまわく)」という言葉が
よく出てきますから、
「阿難」の名前を ご存知の方もあるでしょう。


阿難尊者は
お釈迦さまに長く随行したお弟子で、
釈尊のご説法を最も多く聴聞していたことから
「多聞第一(たもん だいいち)」といわれます。

記憶力抜群で、
お聞きしたことを非常によく覚えていました。

その阿難が
「このように私はお釈迦さまからお聞きしました」と語ったことを
500人の仏弟子たちが
内容に間違いがないか徹底討議して、
全員一致した時だけ記録したと伝えられています。

どの経典も
「如是我聞(是くの如く、我 聞く」と
始まっているのは そのためです。


このように成立したのが「お経」でありますから、
七千余巻の一切経は すべて、

お釈迦さまが、
“生きている人”へなされた ご説法の記録であり、
“亡くなった人”に説かれた経典は、一巻も ありません。


ですから、

法事や法要では
「読経」のあとに、
“お経には、どんなことが教えられているのか?”
その、お釈迦さまの教えを、
参列した人が、聞かせていただく。

これが、法事や法要で、いちばん、大切なことなのですね。


本当の仏教を聞き、本当の幸せに救われる。

それがそのまま
亡くなった方の、真の供養にもなるのですよ、と
親鸞聖人は教えられています。



以上、
親鸞聖人の教えを学べる講座を開催されている方から届いたメールです。



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by sos-wind2 | 2015-12-10 17:27 | なぜ生きる | Comments(0)

人間存在の意義

今から3年前、大阪・ミナミの繁華街で

通り魔事件がありました。

男女2人が腹などを刺され、亡くなった事件です。

犯人は、

「ATMで見た残高には20万円しかなかった。

 家も仕事もない。

 自殺しようと包丁を買った。

 しかし、死に切れなかった。

 そこで人を殺せば死刑になると思ってやった」

と供述したといいます。


この身勝手な犯行動機に

「死にたい言うんやったら自分で死ね」

と大阪府の松井一郎知事が発言して、

議論沸騰したことがありました。

「現在の自殺者数にしたって行政の責任は

 少なくないというのに、身勝手な事だよ」

といったものや

「内心、みんなが思ってることじゃん。

 建前ばかり喋る保身的な奴より好感もてるよ」

というものからいろいろでした。



前からこの手の事件は珍しくありませんでした。

アメリカでよく起きる銃乱射事件は、犯人がたいてい

自らの銃で自殺する、という結末です。

自殺する前に、自分の人生を無茶苦茶にした

学校の教師を殺す、などといった暴挙に出るのです。



「人を殺したら警察に捕まるよ、下手したら死刑だよ」

とさとしても、自殺しようとしている人には

何の脅しにもなりません。



青少年の凶悪犯罪が起きると少年法改正の議論が出ますが、

たとえ改正されても「死んでもいい」と自分の命に

虚しさを深めている子供にどれだけの効果が

期待できましょうか。



ここまでくると「なぜ殺人はいけないのか」と

「なぜ自殺してはいけないのか」は同義の問題です。

つまり“人命の尊厳の理由”が問われているのです。


命が重い理由がわからなければ、尊重できなくなりましょう。


100万円の札束を暖炉の火に投げ入れる人を見れば誰しも

「あっ」と驚きの声を上げるに違いありません。

「なんで!?」と胸が痛いでしょう。


古い新聞紙なら暖炉に入れても何の感慨もありませんが

札束を火の中に投げ込んで平常心でおれる人はありません。



たとえ他人のものであっても

価値のあるものは

容易には捨てられないものです。



自分の命を

「どうせ自分なんかガラクタだから」

と無価値に感じている人が

人の命だけはかけがえのない尊厳なものと

感じられるでしょうか。



『死んでもいいじゃん』の無知は

『殺してもいいじゃん』の暴論に変わります。



自殺、殺人、戦争、虐待

これらは根底に

「なぜ人命は重いのか」

「かけがえのない命と言われる根拠はどこにあるか」

という人間存在の意義が分からない根深い問題があるのです。


以上、
親鸞聖人の教えを学べる講座を開催されている方から届いたメールです。
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by sos-wind2 | 2015-09-15 17:14 | なぜ生きる | Comments(0)

苦悩の根元

苦しみの原因を、

「金が無いからだ」

「あんな人と結婚したから」

「あんな子供をもったから」

と思っていますが

苦悩の根元は、物や人にはありません。

この苦しみの原因は、どこにあるのか。

それは、己れの暗い心にある。

熱病の者は、どんな山海の珍味も、味わえないように、

心の暗い人は、どんな幸福も味わえないのです。

全人類の苦悩の根元は
『無明の闇』です。

無明の闇とは、
「死んだらどうなるか分からない、
死後に暗い心」
後生がハッキリしない心です。

いざ後生と踏みだすと真っ暗になる心であり、

平生は何をしても空しい、
満足できない心としてうごめいています。

どうして
「後生暗い心」が苦悩の根元なのか、
疑問に思う人が多いでしょう。

だが、
未来が暗いと、どうなるか。
例えれば、こうもいえるでしょう。

三日後の大事な試験が、
学生の今の心を暗くする。

五日後に大手術をひかえた患者に、
「今日だけでも、楽しくやろうじゃないか」といってもムリでしょう。

未来が暗いと現在が暗くなる。

墜落を知った飛行機の乗客を考えれば、よくわかります。

どんな食事もおいしくないし、
コメディ映画もおもしろくなくなる。

快適な旅どころではない。

不安におびえ、
狼狽(ろうばい)し、
泣き叫ぶ者もでてくるでしょう。

乗客の苦悩の元はこの場合、
やがておきる墜落なのですが、

墜死だけが恐怖なのではありません。

悲劇に近づくフライトそのものが、
地獄なのです。

未来が暗いと、
現在が暗くなる。

現在が暗いのは、
未来が暗いからなのです。

死後の不安と
現在の不安は、
切り離せないものであることがわかります。

後生暗いままで明るい現在を築こうとしても、
できる道理がないのです。


飛行機に墜落以上の大事はないように、
人生に死ぬ以上の大事はありません。

生死の一大事とも、
後生の一大事ともいわれるゆえんです。

ムダな日々をすごしてきた。
求めるものが間違っていた。

才能、財産、権力があれば他人はうらやむが、
わが身にはよろこびも満足もない。

なぜ心の底から満足できる幸せを求めなかったのか。

後悔のため息ばかりであるとセネカ(二千年前のローマの思想家)は言っています。

「こんなはずではなかった」と、
真っ暗な後生(無明の闇) に驚く、後悔にちがいないでしょう。

終幕の人生にならないと
誰も気づかない落とし穴だから、
チェーホフ(ロシアの小説家)は、
代表作『六号病室』で
「人生は、いまいましい罠」と
表現したのかもしれません。

-------------------------
「世の中の人は、
目先のことばかりに心をうばわれて、
無明の闇を破る人生の大事を知らない」
釈尊(お釈迦さま) の警鐘乱打です。

親鸞聖人が、
無明の闇を苦悩の根元と断言し、
これを破って無尽の法悦を得ることこそが、
人生の目的であると明示された純正さが、鮮明に知らされます。

この生死の一大事を知れば、
人生の目的の有無などの議論は、
吹き飛んでしまうでしょう。

眼前に、
人生の目的が、突きつけられるからです。

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by sos-wind2 | 2015-09-06 13:45 | なぜ生きる(私の白道) | Comments(0)

死後の答え

8月のお盆や、9月の彼岸の時期に、
最近、需要が高まっている仕事があるそうです。

それは「お墓参り 代行サービス」です。

「代行運転なら知っているけれど、墓参りの、代行!?」と
驚かれるかたも、あるでしょう。


いろいろ悩みが あるようです。

「お墓参りに行きたいけれど、多忙で、都合がつかない…」

「お墓が、遠方にあって、ちょくちょく行けない…」

「高齢なので、お墓参りに行くのが、とても大変…」

「できたら、毎月、掃除とお供えはしたいけど、手が回らない…」

「しばらく、お墓参りに行っていないので、お墓の状況が知りたい…」


こんな声に応えて、
各地で展開されている、代行サービスですね。



このようなサービスを希望する人が多いのは、

「墓参りすれば、“先祖”供養になるだろう」という心であり、

「墓参りをおろそかにして“先祖”のタタリでもあったらどうしよう」という、
漠然とした不安からでありましょう。



***

仏教を説かれた お釈迦さまは
「人身受け難し、今、已(すで)に受く」と仰っています。


人間界に生を受ける(人間に生まれる)ことは、
いかに難しく、有り難く、喜ぶべきことかを教えられ、

人間に生まれなければ、果たすことできない
素晴らしい目的・使命のあることを
お釈迦さまは、明らかにされています。


その「人間」に、わたくしが、生まれてきたということは、
“先祖”が、ひとり欠けても、あり得なかったことですから、
大変な深い恩を受けていることは、間違いないでしょう。



***

ただ、ここで、考えてみたいのは、

「“先祖”の霊が墓に眠っている」
「盆の時期になると“先祖”の霊が墓に帰ってくる」
「先祖供養をおろそかにすると“先祖”の霊のタタリで子や孫が不幸になる」

などと、
常識のように、思われていることについて、です。




そもそも、

ひとは、死んだあと、墓石の下に、いられるものなのか・・・

死ねば、生きている人間(子孫)に、禍福を与える力を持つのか・・・

死んだあとは何もなくなる、と言う人もあるが、死後の世界はあるのか・・・

人が亡くなると「他界する」というが、他の世界とは、どんな世界なのか・・・

死後の世界があるとすれば、どんな世界なのか・・・

死ねば「風になる」と歌う人もあるが、そんな自由な身になれるのか・・・

私も、やがて死んでいくが、死ねば、どこへいくのだろう・・・



あいまいなまま、

慣習に身を ゆだねている わたくしたちに、

死後の答えを、ハッキリ説かれているのが、仏教です。



盆や彼岸など、仏事を縁として、
「私も、死んでいかねばならないのだ」と、
生死の一大事に触れ、自身の人生を見つめることが大切ですね。



以上、
親鸞聖人の教えを学べる講座を開催されている方から届いたメールです。
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by sos-wind2 | 2015-09-03 17:12 | なぜ生きる(私の白道) | Comments(0)



私の人生にはいつも猫がいました。 1番たくさんいた時は11匹。 ホントに楽しい日々でした。 最後の子猫(私の目の前で生まれた7匹のきょうだい)の チィちゃんが亡くなって、私の猫暮らしは 最終章に入りました。 残りの日々をロロと共に生きています。
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