続・暮れゆく日々の足跡

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正しき宗教

近代の日本人は、
宗教に関しては幼稚な知識しか持たないことで有名です。

世間では、宗教というと何か不思議な奇跡を持ったもの、
何か分からぬが有り難さのあるものと思っている人が多いようです。

また、
宗教とは心を安らかにし、生き甲斐を与えるものだと思っている人もあるようです。

しかし、
人々の苦しみ悩みを安らかにして、生き甲斐を感じさせるものが宗教なら、
政治、経済、科学、芸術などと変わらないことになります。

心を安らかにし生き甲斐を感じさせない政治なら無意味であるし、
人々の求める物に満足させて、この世を良くするのが経済の目的だし、
天地自然の正体を明らかにし、人間の生命のあり方を突き止め、苦悩を取り除くのが科学だし、
人の心に調和の美を示して安らぎを与えるものが芸術だからです。

だが、
宗教とは文字通り宗(むね)となる教えで、
肝心、要(かなめ)を示す教えであり、大宇宙の根本道理を説くものです。

肝心要に、二つも三つもありません。

真実の宗教は、
唯一絶対の道を説くものでなければなりません。

真実の道は、
ただ一つしかないにもかかわらず、
世の中には余りにも宗教がたくさんあります。

その説いていることは、
種々様々であるばかりでなく、
まるっきり反対のものが凄まじく鎬(しのぎ)を削っています。

見かけの上では、
一応、どちらももっともらしいことを説いていますから、
人々は、みな同じように思うのですが、
実は大変違っているのです。

また、私たちからしても、
一つしかない体で右と左に同時に駆け出すわけにはゆきませんから、
そのどちらかを選定しなければなりません。

その時、何を判定規準として、
正しい宗教を選ぶべきかといいますと、
古来、宗教に対する様々な定義が、
いかように下されましょうとも、
真実の宗教は、
いつでもどこでも変わらぬ、
三世十方を貫く大道理の上に立つものでなければならないということです。
多面、
苦しみ迷う一切のものが救われる教えでなければならないということです。

もちろん宗教は、
論理や哲理を超越して魂の解決をし、
絶対の幸福にするものでありますが、
真の魂の解決、絶対の幸福は、
理性の溶炉を濾過し得た教えによらなければできません。

※理性の溶炉を濾過=納得できるもの

理性の満足に堪え切れない宗教の信心は、
なんら価値のない迷信のほかありません。

三世(いつでも)
十方(どこでも)に、
普遍妥当に輝く哲理の上に説かれると同時に、
すべての生あるものを救済の対象とするものでなければ、
真の宗教とはいわれないのです。

このような両面を完全に具備した宗教は、
今日まで人類社会に現れたものとしては、
仏教以外には見当たりません。

仏教の中でも真実の教えは、
『大無量寿経』に説かれている阿弥陀仏の本願のみだと、
親鸞聖人は喝破されています。








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by sos-wind2 | 2015-04-30 11:11 | なぜ生きる(私の白道) | Comments(0)

ちぐら干し(*´ω`*)

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晴れて
陽射しは初夏です。

ラパンの上でジンちゃんの思い出の詰まったちぐらを干してます。

それから
ちぐらの中やストーブの前で使ってた猫用の毛布も全部洗った。

こうして
時はどんどん流れてく。

ジンちゃんは何処にいったかな?
アオちゃんは
チビク母さんは……



廊下でチビとロロは日向ぼっこ中
嬉しそう(*^^*)

北の窓も開け放すと
涼しい風が部屋を通っていく。
気持ちいい季節です。








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by sos-wind2 | 2015-04-29 14:05 | 猫暮らし

必ず死ぬのに、なぜ生きる?

明るい人生を望み願い、
「暗い死のことなんて考えたくない」と
思っている私たちに、
「無常を観(かん)じよ」と
仏教は教えられています。

私たちは毎日、
朝から晩まで忙しい忙しいと駆け回っています。
生きるために食事や睡眠、会話や移動に多くの時間を費やしています。

人生は
喰て寝て起きて 糞たれて
子は親となる
子は親となる

これは禅僧・一休の歌ですが、
同じところをグルグル回りながら成長し、
やがて老いて死ぬ。
これが私たちの実態なら、
今死ぬのも、十年後に死ぬのも、同じことではないか、と知れば、
普段の営みに一生懸命取り組む根底に、
「生きる目的」がなければなりません。

皆、『どう生きる』には一生懸命ですが、
『なぜ生きる』かを知りません。
それだけ皆、一生懸命生きるのはなぜか。
それこそ、最も大事なことです。

「なぜ生きるか」と「どう生きるか」の違いを明確にするため、
「生きること」を、
「歩くこと」として考えてみましょう。

私たちは、
昨日から今日、今日から明日へと生きています。
同様に、「歩く」のも、
前へ前へと進んでいます。

「どう歩くか」も大切ですが、
「なぜ歩くか」「どこへ向かって歩くか」は、
それ以前に必要で、目的地なしに歩いている人はいません。

たとえば、
「駅へ行って、三十分後の電車に乗る」
「健康のために歩く」
「気分転換のために歩く」が、
「なぜ歩くか」です。

目的があって初めて、ゆっくり歩けばいいのか、急いで歩かねばならぬのか、などの
「どう歩くか」が決まります。

「なぜ」「どこへ向かって」は目的であり、
「どう」は手段です。

両方とも大切ですが、
目的あっての手段ですから、どちらが先決かは明らかです。

私たちが「歩く」には、目的地があります。

ところが
「生きる」だけは、
「なぜ生きるか」を知らずに生きている人がほとんどです。

どんな仕事をするか、結婚するかしないか、子供を何人産み育てるか又は産まないか、家を建てよう、老後はこうしよう……
趣味や娯楽、芸術、政治など
これらは全て「どう生きるか」の手段です。

私たちに死が訪れないのなら
「どう生きるか」だけでよいのでしょうが、
万人に共通して訪れる確実な未来は『死』です。

あるかないか分からない老後の心配はしても(若死したら老後はありません)、必ずある死の心配をする人はほとんどいません。
それは、何故か?
私たちは自分もいつか死ぬと知っていても、
自分が本当に死ぬとは思えないのです。

けれど「死」は、必ず訪れます。
ひとりで、死の恐怖に怯え、生への執着にもだえ、生きがいを見失い
最後には激しい肉体的苦痛など、全く勝ち目のない苦闘の末、
何の解決も得られないまま死んでゆかねばなりません。

こうした精神的にも肉体的にも、
地獄の責苦(せめく)を受けて死んだ人が過去にあり、
また
未来永遠に同じことが繰り返されてゆくのです。

こんな一大事を何故に人々は、
真剣に考えてみようとしないのでしょうか。
たとえ考えても線香花火に終るのは、なぜでしょうか。

現代人の知性は、
死後の無を肯定しながら
感情は死の不安に耐え切れず、死後の世界を肯定しようとして、
その矛盾に苦しんでいるのです。

では、なぜ死が怖ろしいのか。それは、
「死は休息である」
とか、
「永眠である」
とか言ってはいますが、
「死んだらどうなるか」
真実それがハッキリしないからです。

しかも、
死の恐怖は決して死後の世界と、無関係ではあり得ません。

人生の目的「なぜ生きる」は、
仏法以外には教えられていません。

「なぜ生きるか」がわからず、
「どう生きるか」のみに苦しんでいる暗い心を、
「無明の闇」と説かれています。
この闇の心を破り、崩れることのない絶対の幸福になることこそが人生の目的です。

親鸞聖人は
「呼吸のあいだ、すなわちこれ来生なり。
ひとたび人身を失えば万劫にもかえらず。
この時に悟らざれば、仏、衆生を如何したまはん。
願わくは無常を念じて、
いたずらに後悔をのこすことなかれ」
と、
後生の一大事を警鐘乱打し、
その一刻も速やかな解決を促されています。

「無常を観(かん)ずるは菩提心の一(はじめ)なり」

諸行無常の現実をありのままに見よ。
はかない世と知らされ、必ず、
「この一瞬の人生、やがて死ぬのになぜ生きる?」

生まれてきた意味や、永続する幸せを求めずにおれなくなります。
その心を「菩提心(ぼだいしん)」といい、
これが人生を真に豊かにする大切な心だと教えられています。








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by sos-wind2 | 2015-04-29 10:53 | なぜ生きる(私の白道) | Comments(0)

人生の実相

「お前達には判らないのか

あの激しい無常の嵐が

まだ判らないのか

ものはみな常住しないのだ

いずれの日にか衰え
いずれの日にか亡ぶのだ

快楽のかげにも無常の響がこもっているのだ

美女の奏ずる絃歌は欲をもって人を惑わすのみだ

三界は悩みのみ
猛(たけ)き火の如く浮べる雲の如く
幻や水泡の如し

若きを愛すれど
やがて老と病と死の為に壊れさるのだ」


人生の実相に驚き
不変の幸福を希求された
釈尊のお言葉です








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by sos-wind2 | 2015-04-28 21:16 | なぜ生きる(私の白道) | Comments(0)

チィちゃん17才

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チィちゃんは今日
17才の誕生日を迎えました

時々ロロと追いかけっこするのですが
年だからか、やっぱり
寝ていることが多いです

今日はいい天気
ジンちゃんの好きだった日向ぼっこ中

7きょうだいの最後の一人

ロロがいてくれるから
チィちゃん淋しくないよね…

長生きしてね058.gif














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by sos-wind2 | 2015-04-28 13:01 | 猫暮らし

恐ろしい業(ごう)

仏教では一切衆生が仏の慈悲の対象ですから、
あらゆる生き物の命は同等に尊いものと教えられます。

人間は彼らを殺して食することを当然のように思っていますが、
殺される動物の側からいえば、
ちょうど、私たちが無実の罪で牢獄に連れられ、
はては虐殺されるときのような思いでしょう。
人間の悪逆無道を怒り、呪って死んでいるに違いないのです。

食肉処理場に引かれてゆく牛は、
両眼に涙をためているといいます。

肉屋さんに殺させているのは、消費者たる私たちですから、
死んだ家畜の肉を食べているまま、殺生罪をつくっているのです。
魚を食べているのも同様です。

それでは米や野菜ばかり食べて、肉食しなければ殺生を犯さなくてすむのでしょうか。
動物は殺さずに済んでも、植物を育てるには、
大量の虫が駆除されていることを知らねばならない。

その他、
道を歩いていても虫を踏むでしょうし、
車の運転をすれば虫がぶつかってくるし、
殺生しないで生きることはできません。

私たちが健康で長生きできるのは、
医学の進歩によりますが、
そこにもおびただしい数の実験動物が犠牲になっています。

生きながらに劇薬を投与されるもの、
解剖で切り刻まれてゆくもの、
人類の健康の裏には、彼らの声なき悲鳴がこだましているのです。

もし、誕生してから今日までつくり続けてきた殺生罪の業報が、
現在、即時に現れたならば、
この五体が何十万回バラバラに砕かれても報いきれないほどであることを知るべきです。


こんな悪のかたまりの私たちが臨終を迎えたら、
後生はどうなるのか。
親鸞聖人は、
「とても地獄は一定すみかぞかし」
と仰有います。

地獄に堕ちて当然の罪悪を日々つくり続けているのです。

この自己の実相が分かるとき、
はじめて後生に一大事のあることが知らされます。

釈尊は「必堕無間」と説かれましたが、
必ず無間地獄に堕ちる一大事が、私たちの後生にまちかまえているのです。










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by sos-wind2 | 2015-04-27 06:31 | なぜ生きる(私の白道) | Comments(0)

人を迷わせる「占い」

釈尊は、
「如来の法の中に吉日良辰をえらぶことなし」(涅槃経)
「吉良日を視ることを得ざれ」(般舟経)
とおっしゃり、
親鸞聖人も、
「吉日良辰をえらび、占相祭祀をこのむものなり、これは外道なり」(一念多念証文)
とおっしゃっています。

「吉良日」「吉日良辰」とは、日の善悪、
「占相祭祀」とは、手相、人相、家相、墓相、星占いなどの一切の占いを言います。

これらは、
善因善果、悪因悪果、自因自果の因果の道理に外れた迷信の最たるものであり、
釈尊、親鸞聖人、ともに強く排斥しておられます。

多くの暦には、大安や仏滅、友引などと書き込まれ、
大安の祝い事は縁起がよく、仏滅は悪いといわれ、結婚式場は日によって込み具合が違っていたり、
友引や三隣亡の葬式は、亡者の友達やお隣さんに迷惑がかかるからいけないなどと言います……
しかもこれら日の善悪は、
「仏滅」とあるから、仏教の教えだと誤解している人さえいます。

ところが仏教を説かれた釈尊は、
“仏教では、日の善悪を選ぶことはない”
と断言なされています。

日そのものに善悪があるのではなく、
自分のやった行為で、善い日、悪い日となるのです。
すべての運命は、自分の過去の業(行為) によって決まると説くのが仏教です。

姓名判断にも、何ら根拠はありません。
名前は、あくまでも、自分と他人を仮に区別する目印にすぎません。

人間の幸、不幸の原因を、
そんな単なる符牒(ふちょう) で判断しようとするのは、
馬鹿げた迷信です。

手相は、いわば手のシワです。
シワの長短で、どうして運命が変わるというのでしょうか。

家相にしても、家の方角や場所が、なぜ私たちに禍福を与えるものになるのでしょうか。
確かに、陽当たりや風通しは変わるかもしれませんが、それ以上でもそれ以下でもありません。
方角に吉凶があるというかもしれませんが、それも宇宙に一歩飛び出して、地球上での東西南北から離れれば、ナンセンスな代物になります。

印相などは、印鑑を持つ習慣のある国でしか通用しないもので、
そんなものが、我々の幸不幸を左右するとは到底言えません。

顔で判断する人相、墓の建て方で幸、不幸がわかるという墓相、
その他、占いは、数限りなくあります。

仏教では、
占いなどは一切認めません。
特に親鸞聖人は、占相を徹底排斥された方として、有名です。

墓相や家相、印相、人相、手相、星占いなどの吉凶の占いは、みな迷信であり邪信であって、
無間地獄の業であるとまで厳誡なされています。

また、
先祖のたたりをやかましく言う者もいますが、
これまたナンセンスなことです。

死んだ人間が、生きている人に幸、不幸を与える力を持つことはありえません。

信心決定(阿弥陀仏の絶対の救いにあずかる) して亡くなった人は、
浄土から娑婆世界に舞い戻って、衆生救済の大活躍をしておられるし、

信心決定せずに死んだ人は、無間の火城で大苦悩を受けているから、
他人の幸、不幸どころではありません。

先祖のたたりで不幸になるなどと言うのは、
後生の一大事を知らない者のたわごとなのです。

親鸞聖人はまた、
現世利益を売り物にするインチキゴリヤク宗教も徹底打破なされています。

釈尊は、
三世十方を貫く道理(いつでもどこでも成り立つ真理) に立脚して仏法を説かれました。
その仏教の真髄である阿弥陀仏の本願を開顕してくだされたのが、親鸞聖人なのです。









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by sos-wind2 | 2015-04-26 14:35 | なぜ生きる(私の白道) | Comments(0)

四つの苦しみ

お釈迦さまは、
人生には、逃れられぬ四つの苦しみがあることを知られました。

その四つとは、
生苦・老苦・病苦・死苦です。

人は、生きるために衣食住を求め、
嫌でも毎日働かねばなりません。
今日一日生きるのも、簡単ではありありません。
そんな生きる苦しみが【生苦】です。

若い時はどんなに頑丈で美しい肉体も、だんだんと容姿や体の機能が衰え、
自分の体が自分で思うようにならなくなるのが【老苦】です。

風邪や肺炎、糖尿病、心臓や腎臓病など、
体一つで幾千の病と闘わねばなりません。
治っても、また別の病に苦しむ。
病いの苦しみが【病苦】です。

最後に【死苦】
死ぬほどつらいことはありません。
地震や津波、エボラウイルスなどの対策に懸命なのは、
誰しも死にたくないからです。

しかし、
人は百パーセント死なねばなりません。

宝くじを当て、マイホームを建てた喜び満足も、死の前には無力です。

人は皆、
苦を厭(いと)い、幸せを願いながら、苦しみから逃れられず、
得られた幸せも、老いと病い、
ついには死によって総崩れになってしまいます。

この万人の生死の大問題を解決し、
本当の幸せになる道を、お釈迦さまは求められたのです。

仏覚をさとられたお釈迦さまは、
どうにもならぬ苦悩の人生を、
必ず絶対の幸福に救う、阿弥陀仏という仏の本願があると、教えられました。

この釈迦一代の教えを記された一切経を、
何度も読み破られた親鸞聖人は、
釈迦如来がこの世に生まれ、仏教を説かれた目的は、
阿弥陀仏の本願一つを説かれるためであった、と断言されています。

この阿弥陀仏の救いを、親鸞聖人は、
"苦海の人生に大船あり"
と教えられました。

大船とは、阿弥陀仏の本願のことです。

お釈迦さまの本意を明らかになされたのが今日
「世界の光」と仰がれる親鸞聖人だったのです。










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by sos-wind2 | 2015-04-26 05:26 | なぜ生きる(私の白道) | Comments(0)

死人と仏

世間では死人を仏と言いますが、
とんでもない間違いです!

テレビの刑事物で、殺人事件が発生すると、
「この仏の身元は分かったか」
犯人が捕まらないと、
「これでは仏も浮かばれない」などと言いますが……
とんでもない間違いです!!

もし、「死人=仏」なら、
仏教は死人の教えとなってしまいますが、
死者に教えが説けるはずはありません。

仏とは
大宇宙の真理を悟られた方です。

悟(さと)りの境地には、五十二の段階があります。

十信、十住、十行、十回向、十地、等覚、妙覚が、
悟りの五十二の段階で、
このうちの最高のさとりである妙覚のみを「仏のさとり(仏覚)」といいます。
これ以上のさとりはありませんから「無上覚」ともいわれます。

ここまで悟った人は、
この地球上では釈尊(お釈迦さま) 以外にはいないから
「釈迦の前に仏なし、釈迦の後に仏なし」と言われます。

あの有名な八宗の祖師、小釈迦とまで言われる龍樹菩薩や、
無著菩薩でさえ、四十一位の初地までしか達していません。

しかし、ここまで(四十一位の初地) まで悟った人は、
古今を通じて、この二人以外に見当たりません。

中国の天台僧、南嶽慧思は十信位の六根清浄位どまりだし、
開祖、智者は臨終に、
弟子の智朗が「師匠はどこまで悟られたのですか」と尋ねた時、
「私がもし、弟子の指導や大衆の教化に時間を費やさず、一心に修行に身を沈めてきたならば、必ず、六根清浄位(十段目) まで悟ったであろう。しかし、他人の指導に歳月を費やし、五品弟子位(九段目) までしか至らなかった」
と告白して亡くなっています。

十信位からでは、まだ、
十住、十行、十回向、十地の四十段を経て、
等覚、妙覚だから
仏覚を目指すことのいかに難しいかが知らされます。

かかる高遠な悟りを開いた人のみを「仏」と言うのだから、
死人をみて仏になったなどと言うのは、全く、その人の無知さをあらわしていることになります。

このような深遠な悟りに到達した釈尊が、説かれた教えが仏教なのです。

その釈尊が一切経に、
本師本仏と称賛し礼拝していられるのが、阿弥陀仏という仏です。

釈尊は、ひとえに阿弥陀仏を絶讃し、
「われ、この世に生まれ出た目的は、ただ、阿弥陀仏の本願一つを説く為なり」
と仰せになっています。









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by sos-wind2 | 2015-04-25 14:51 | なぜ生きる(私の白道) | Comments(0)

タイヤ交換

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もう
雪は降りそうにないので
普通タイヤに交換してきました
免許とってまだ1年過ぎてないので
全てが初めてのこと。

数日前まで満開だった桜がどんどん散って、
道は桜のじゅうたんでした。
ネズちゃんのことを思い出しました。








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by sos-wind2 | 2015-04-25 13:23 | 過ぎゆく日々のカケラ



私の人生にはいつも猫がいました。 1番たくさんいた時は11匹。 ホントに楽しい日々でした。 最後の子猫(私の目の前で生まれた7匹のきょうだい)の チィちゃんが亡くなって、私の猫暮らしは 最終章に入りました。 残りの日々をロロと共に生きています。
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