私の大切な人は どこに行ったのでしょう

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もうじきお盆
ということで
朝、5時すぎに
姉とお墓の草取りに行ってきました。


世間ではお盆に
亡くなった人の霊が帰ると信じられていますが、

永遠不滅の固定の霊なんてものは存在しません。

死んだら私という存在は離散して
業が残るのです。

この業は次生の身心を生み出します。

今生の身心と次生の身心とは同一のものではありませんが

業が両者を連鎖しています。



ビリヤードで玉を突く時、

赤玉の速力とその方向は必ず白玉の動く方向と速力を決定します。



赤玉と白玉は同一のものではありませんが

その間に密接不離の関係があるようなものです。



私たちの不滅の業力は

流れ流れて因果相続して窮りなく、

今生の果報尽きても

来世の新なる果報を引き、

幾度も生死輪廻して

止むことがありません!



車輪が果てしなくまわり続ける様に

私たちは

六道 (地獄界、餓死界、畜生界、修羅界、人間界、天上界)を



輪廻 (果てしなく周り続ける)

しているのです。


親、兄弟、夫婦、親子、友人、同僚、恋人といっても
それは生きているこの世だけの縁にすきません。

死んだら、お別れです。
死んでまた会えることはないのです。

お葬式や法事、お盆などは
死んだ人を機会として

自分もやがて死ぬ、
死んだらどうなるのか、

今もしもここで私の心臓が止まったら、
私は“明日” を
どこで迎えるんだろう?

自己の後生の一大事を思い
解脱(後生の一大事の解決)を求める
機縁としたい
そうでなければなりません。


「それでも、
亡くなった大切な人に
してやれることはないものでしょうか?」

と、こんな問いに
有名な『歎異抄』で、
親鸞聖人はこう仰っています。

「ただ自力をすてて
急ぎ浄土のさとりを開きなば、
六道四生のあいだ、
いずれの業苦に沈めりとも、
神通方便をもってまず有縁を度すべきなり」
(歎異抄 五章)

“ただ、はやく本願を計ろう自力の心を捨てて弥陀に救い摂られ、
浄土で仏のさとりを開けば、
どんな六道(苦しみの絶えない6つの世界)・四生(一切の生物のこと) という迷いの世界で、
苦しみに沈んでいようとも、
仏の方便力(仏が苦悩の人々を真実の幸福に導く力) で
縁の深い人々から救うことができよう”

生きている今、
阿弥陀仏に救い摂られた人は、
死ねば弥陀の浄土へ往って
仏のさとりを開き、
縁のある人を救うことができるのだ、
それが真の供養なのだよ、
と教えられています。
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by sos-wind2 | 2015-08-07 10:01 | なぜ生きる | Comments(0)

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