死は「永遠の眠り」ではない

「生ある者は必ず滅す」
この世に死から逃れられる者は誰一人としていません。

人生は五十年か百年の間のものである。
決して長くはない。

人間死んだらどうなるか。

死後は無だという人がいる。

自分というものの存在が全く消滅してしまうから死は恐ろしいのだという人もいる。

しかしそれはおかしな理屈だ。
死後の世界が無であるならば人間は死を恐れなくともよい。

ギリシャの哲学者ソクラテスはそれについて次のように述べている。
「もしそれ(死) がすべての感覚の消失であり、夢一つさえ見ない眠りに等しいものならば、死は人間にとって驚嘆すべき利得といえるであろう。
というのは、思うにもし人が夢一つさえ見ない程熟睡した夜を選び出して、これをその生涯の他の多くの夜や日と比較して見て、
そうして熟考の後、
その生涯の幾日幾夜をこの一夜よりも更に好く快く過ごしたかを自白しなければならないとすればーーー
思うに単に普通人のみならず、ペルシャ大王といえども、
それは他の日の夜とに比べて容易に数えられる程しかないことを発見するであろうからである。
それで死が果してかくの如きものであるならば、
私はこれを一つの利得であると言おう。
その時の永遠はただの一夜より長くは見えまいから。」

ソクラテスは死が
「永遠の眠り」ーーー無ーーーであったなら、
それは一種の快楽であると主張する。
その場合、人間は死を恐れなくともよいはずである。

しかし現実に我々は死を恐れる、
他のどのような不幸よりも死を忌み嫌う。

これは死がソクラテスや一部の人達がいうような「永遠の眠り」などではないことを示唆しているのだ。

死後の世界は実在する。
釈尊(お釈迦さま) は
三世(過去世・現在世・未来世) の実在を説き、
そこに業(ごう) の不滅を説かれる。

死によって肉体は灰や煙となって失われても
業は亡びない。

業とは印度でカルマといい、
日本語の「行為」にあたる。
我々が身口意(体と口と心の行い) の三つで日々積み重ねる善悪の行為のことである。

この業が不滅のものとして
未来世へと続いていくのだと仏教では説かれているのである。

一例をあげよう。
この世には一人殺して死刑に処せられる者もいれば
十人殺して死刑になる人もいる。

もし死後の世界がないならば、
一人殺しても十人殺しても、同じただ一度の死という結果に終わるということなのである。
不合理な話ではないか。
また戦場で何百人もの人を殺害して死刑にもならず、勲章を与えられて生きている人もいるのである。

この場合はその罪は無に帰してしまうのか。

もし死後の世界が無いということが事実とするならば
我々は善悪を考えながらまじめに生きる事が馬鹿らしくなってくる。

他人に判らぬように悪の限りを尽くして生きた方が得である。
五十年百年の人生など一瞬の間のものではないか。
人のことなんかどうでもよい。
自分だけが楽しく愉快に生きればよいのである。

他人から罪の追求をされて、
ついにどうしようもなくなったらその時こそ「永遠の眠り」へ逃げ込めばそれで終りである。

何度も言うが、
そんな不合理な話はないのである。
死後はあるのである。

私たちの死後は経典に説かれているように
「一切衆生 必堕無間」
すべての人間は一息切れたら必ず無間地獄に堕ちて苦しむのだ。

地獄とは我々がこの世で造った悪業によって生ずる苦界のことであって
梵語ではナラカという。

一度この地獄に堕在したならば未来永劫の間、大苦悩を受けなければならない。

この大問題を仏法では
「生死の一大事」或は「後生の一大事」という。

この生死の一大事があるが故に
我々は死を恐れるのだ。

仏法はこの生死の一大事(後生の一大事) の解決のために説かれたのだ。

私たちは身口意(体と口と心の行い) で日々どれだけの悪を積み重ねるか。

釈尊はその私たちの実相を『大無量寿経 下巻』に、

心常念悪(しんじょうねんあく)
口常言悪(くじょうごんあく)
身常行悪(しんじょうぎょうあく)
曽無一善(ぞうむいちぜん)

心は常に悪を念(おも)い
口は常に悪を言い
身は常に悪を行い
曽(か)つて一善も無し

と説いておられる。

親鸞聖人は
「一生造悪」「極重悪人」と自己の姿を告白せられ、
更に和讃には、
「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし
 虚仮不実の我が身にて、清浄の心もさらになし」
「悪性さらにやめがたし、こころは蛇蝎のごとくなり、
 修善も雑毒なるゆえに、虚仮の行とぞなづけたる」
と述べられている。

このような現在世における無量の悪因が
未来世に無間地獄の苦悩という悪果になって帰って来るのである。

「一生造悪」は果して親鸞聖人だけのことなのだろうか。

我が身の姿を忘れて
自分は善人だと思っている人は
とんでもない間違いを犯しているのである。

考えてみれば人生ほど危ないものはない。
名誉を求めて走っている。
財産を得ようとして争っている。
愛欲に溺れて苦しんでいる。
夢のようなものを信頼して喜んでいる。

あたかも地質学者が山に登って、
この山は火山質か否かの議論に没頭している間に山それ自体がごう然と爆発して、如実に火山であることを知った時にはもう遅いのだ。
危険千万ではないか。
なぜ足下に起こるこの一大事に気がつかないのか。
なぜ忠実に自己の立場を凝視しないのか。

仏法を求める目的は、
この生死の一大事から救われるためなのだ。

「あわれあわれ存命のうちに、みなみな信心決定あれかしと朝夕思いはんべり。
まこと宿善まかせとは言いながら述懐の心しばらくもやむことなし」
(蓮如上人)

この生死の一大事(後生の一大事) の解決できた事を
浄土真宗では信心決定(しんじんけつじょう)
あるいは信心獲得(しんじんぎゃくとく) と言う。

そして
この信心を決定(けつじょう) せずは
極楽には往生せずして無間地獄に堕在せねばならないのだから、
一日も片時も急いで仏法を聞き、
信心決定を求めなければならないのです。




.
[PR]
by sos-wind2 | 2015-07-12 10:37 | なぜ生きる | Comments(0)

猫暮らししてる絵描きのブログです


by 過ぎゆく風